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| ◆六本木の由来◆ |
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| 六本木交差点にある記念碑、彫刻家・本郷新(ほんごうしん)氏による「奏でる乙女」像の側面に付けられた記述によると、かつてから関東に広がっていた武蔵野の地の東南に、年月を経た六本の松が生えていたそうです。どこからでも見ることができたその松がある土地の周辺を、人々がいつしか「六本木」と呼ぶようになったのが地名の由来とされ、寛永年間に、徳川二代将軍秀忠夫人の荼毘地(だびち・火葬地)煙下を下賜され、その後出来た仏寺の門前に商家が集まり、大名屋敷も立ち並ぶようになり、今の発展をみることとなったようです。 |
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| 六本木交差点の喧騒の中で歴史を物語る、「奏でる乙女」像 |
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| ◆江戸時代〜毛利家の下屋敷◆ |
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「東京ミッドタウン」建設地は江戸時代当時、長州藩毛利家の下屋敷でした。長州藩といえば現在の山口県にあたり、萩に城をおく36万石の大名家。江戸の当時、下屋敷の敷地面積は庭園も含めると約3万坪あまりだったといいますから、毛利家はかなり広大な土地を所有していたことになり、防衛庁舎のあった高台に御殿があったほか、眼下に広がる広大な庭は「清水園」と呼ばれ、江戸の街並みを一望できる名園だったといいます。邸内には美しい檜(ひのき)が多く生えていたため「檜屋敷」の愛称で呼ばれており、そのことから、現在の「檜町公園」「防衛庁檜町庁舎」という名の由来になったとも言われています。
元治元(1864)年、時の幕府が行った長州藩討伐によって討ち払われ、建物自体は残っていませんが、「東京ミッドタウン」と時を同じくして再整備されている「檜町公園」の池は、庭園にあったものの名残です。
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毛利家の敷地で発見された土坑からは、下屋敷が拝領された1640年頃に埋められたと推定される金銭、永楽通宝・寛永通宝、かわらけと呼ばれる土器などが出土しており、おそらく毛利家が建物を建てる際に行った地鎮祭跡ではないか、と言われています。江戸時代初期の大名屋敷から地鎮祭の跡が発見されることは非常に珍しく、中でも永楽通宝が出土したのは全国でも初の事例として、江戸初期の人々の暮らしを知る、貴重な資料として大切にされています。
毛利家地鎮祭後についての教育庁資料 http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr030304k.htm |
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| ◆明治から昭和へ〜陸軍駐屯地を経て防衛庁に◆ |
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明治維新の後は、たくさん武家屋敷が並んでいた六本木界隈には日本軍の施設が置かれるようになりました。そのうちの一つが毛利下屋敷の跡地に置かれた「歩兵第一連隊」です。明治から昭和にかけて、しばらくは陸軍駐屯地として利用されていましたが、終戦後に一旦米軍の将校宿舎となります。その後の昭和35(1960)年、霞ヶ関にあった防衛庁本庁が移転するのに伴い、この六本木が防衛庁本庁として、約40年もの間利用されてきたのです。
その後、街の増大化と施設の老朽化に伴い、防衛庁は平成12(2000)年に新宿区市ヶ谷新庁舎に移転しました。
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| ◆平成を迎えて〜東京ミッドタウン誕生◆ |
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防衛庁が市ヶ谷に移転した翌年の平成13(2001)年、財務省により防衛庁檜町庁舎跡地の一般競争入札が実施されました。落札したのは三井不動産株式会社を幹事社とする、三井不動産グループ。都心に残された数少ない大規模な土地という希少価値からか、落札金額は総額で1800億円という値段になりました。
平成15(2003)年に広大な緑を育む檜町公園をはじめ、オフィス、住宅、商業施設からなる複合再開発計画が決定、再生事業が始まりました。
平成17(2005)年、合計4ヘクタールもの広大な緑の空間を都心部に創造するため、本体工事に先立って敷地内にあったクス・イチョウ・サクラなど約140本の既存樹木の移植工事を開始。工事終了後に、「東京ミッドタウン」敷地の北西、「デザイン・ウイング」から「ガーデン・サイド」にかけてのエリア「ミッドタウン・ガーデン」に再植樹されました。
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| 写真の右側、多くのクレーンが見える場所がミッドタウン建設前の「旧防衛庁跡地」 |
大小のビルが集まる「東京ミッドタウン」完成後の風景 |
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| ※上記写真をクリックすると大きな写真が見れます。 |
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毛利家下屋敷跡に使われていた石組溝の石は、斜面の保護に使う擁壁(ようへき)へと再利用されています。 |
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